<裁判官千葉勝美の補足意見>
思想良心の自由についての記述は必読です。

1 本件職務命令に対する合憲性審査の視点について
・憲法19条「思想及び良心の自由」の意味について
憲法19条が保障する「思想及び良心の自由」の意味については、広く人の内心の活動全般をいうとする見解がある。そこでは、各人のライフスタイル、社会生活上の考えや嗜好、常識的な物事の是非の判断や好悪の感情まで広く含まれることになろう。もちろん、このような内心の活動が社会生活において一般に尊重されるべきものであることは了解できるところではあるが、これにも憲法19条の保障が及ぶとなると、これに反する行為を求めることは個人の思想及び良心の自由の制約になり、許されないということになる。しかしながら、これでは自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり、社会秩序が成り立たなくなることにもなりかねない。したがって、ここでは、基本的には、信仰に準ずる確固たる世界観、主義、思想等、個人の人格形成の核心を成す内心の活動をいうものと解すべきであろう。


・上告人自身の歴史観ないし世界観は、これに当たる
・このような思想及び良心の自由は、外部からこれを直接制約することを許さない絶対的な人権である。
・この歴史観等及びこれと不可分一体の行動が憲法19条による直接的、絶対的な保障の対象となる。

核となる思想信条等に由来するものではあるが、それと不可分一体とまではいえない種々の考えないし行動(外部的行動)を制限する行為(制限的行為)がどのような場合に許されるのか。

外部的行動(核となる思想信条等に属するものを除いたもの)は、いわば、核となる思想信条等が絶対的保障を受ける核心部分とすれば、それの外側に存在する同心円の中に位置し、核心部分との遠近によって、関連性の程度に差異が生ずるという性質のものである
・そして、この外部的行動は、内側の同心円に属するもの(核となる思想信条等)ではないので、憲法19条の保障の対象そのものではなく、その制限をおよそ許さないというものではない
・また、それについて制限的行為の許容性・合憲性の審査については、精神的自由としての基本的人権を制約する行為の合憲性の審査基準であるいわゆる「厳格な基準」による必要もない
・しかしながら、この外部的行動は核となる思想信条等との関連性が存在するのであるから、制限的行為によりその間接的な制約となる面が生ずるのであって、制限的行為の許容性等については、これを正当化し得る必要性、合理性がなければならないというべきである。
・さらに、
当該外部的行動が核心部分に近くなり関連性が強くなるほど間接的な制約の程度も強くなる関係にあるので、制限的行為に求められる必要性、合理性の程度は、それに応じて高度なもの、厳しいものが求められる。
・他方、核心部分から遠く関連性が強くないものについては、要求される必要性、合理性の程度は前者の場合よりは緩やかに解することになる。そして、このような必要性、合理性の程度等の判断に際しては、制限される外部的行動の内容及び性質並びに当該制限的行為の態様等の諸事情を勘案した上で、核となる思想信条等についての間接的な制約となる面がどの程度あるのか、制限的行為の目的・内容、それにより得られる利益がどのようなものか等を、比較考量の観点から検討し判断していくことになる。
・なお、さきに述べたように、このような比較考量は、本人の内心の領域に立ち入って、本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付けたり、ランク付けしたりするものではなく、飽くまでも外部的行動が核となる思想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的、一般的な判断に基づくものにとどまるものである。

・本件職務命令が求める起立斉唱行為は、国旗・国歌である「日の丸」・「君が代」に対し多かれ少なかれ敬意を表する意味合いが含まれており、その点において、本件職務命令は、上告人の歴史観等それ自体を否定するような直接的な制約となるものとはいえないが、その間接的な制約となる面があり、また、その限りにおいて上告人の上記の反強制的信条ともそごする可能性があるものである。
・しかしながら、法廷意見の述べるとおり、起立斉唱行為は、学校行事における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し、外部から見ても上告人の歴史観等自体を否定するような思想の表明として認識されるものではなく、他方、起立斉唱行為の教育現場における意義等は十分認められるのであって、本件職務命令は、憲法上これを許容し得る程度の必要性、合理性が認められるものと解される。



厳格な基準でなくても良いというのは、どうなのでしょうか。
例えば、表現の自由に対する規制について、表現内容そのものの規制でないいわゆる表現内容中立規制について合理的関連性の基準を適用するなど、判例は、中心円から外れると途端に基準が緩くなる傾向にあったと思う。
直接的制約が絶対不可であるが、実際、堂々と直接的制約により思想を制限するということが採られることはありえない。大抵は、間接的制約の形をとるのが普通だと思います。
そうだとすると、間接的制約において、他の公共の福祉による制約を考えるとしても、少なくとも厳格な基準は採るべきだと思います。最初から広範な基準を採ると緩く運用される可能性が高い。むしろ、同心円から近いものは厳格な基準を適用し、同心円から遠い場合には、審査基準を一段階ゆるめるべきではないかと考えます。

ただ、中心から遠ざかるにつれ審査基準が下がっていく感触は、憲法の問題で違憲審査基準を考える際に参考になります。こんな感じで違憲審査基準を説得的に導き出せれば完璧です。基準は厳格な基準です。これが公共の福祉などとの兼ね合いで、一段一段下げることができるのか。おおまかには二重の基準論などで大枠は決めるべきですが、微調整は、この感触で行われていきます。アファーマティブアクションだったり、商業的表現だったり、教科書に書いてありますよね。大事なのは何で下げることができるのかということです。芦部説だと二重の基準論で出てくる民主政の過程なんかが最重要キーワードになりますね。司法の謙抑性などが下げる理由なのですが、あくまで民主政の過程が機能しているから下げられるのです。民主政の過程が機能しなければ、違憲審査の厳格な基準は下げてはいけないんですよ。



次に、「2 本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて」として、感想が述べられています。あえて全文を載せておきたいと思います。寛容の精神ですかね。
「職務命令として起立斉唱行為を命ずることが違憲・無効とはいえない以上、これに従わない教員が懲戒処分を受けるのは、それが過大なものであったり手続的な瑕疵があった場合等でない限り、正当・適法なものである。しかしながら、教員としては、起立斉唱行為の拒否は自己の歴史観等に由来する行動であるため、司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが、必ずしもこの問題を社会的にも最終的な解決へ導くことになるとはいえない。
一般に、国旗及び国歌は、国家を象徴するものとして、国際的礼譲の対象とされ、また、式典等の場における儀礼の対象とされる。我が国では、以前は慣習により、平成11年以降は法律により、「日の丸」を国旗と定め、「君が代」を国歌と定めている。入学式や卒業式のような学校の式典においては、当然のことながら、国旗及び国歌がその意義にふさわしい儀礼をもって尊重されるのが望まれるところである。しかしながら、我が国においては、「日の丸」・「君が代」がそのような取扱いを受けることについて、歴史的な経緯等から様々な考えが存在するのが現実である。
国旗及び国歌に対する姿勢は、個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題であって、国民が心から敬愛するものであってこそ、国旗及び国歌がその本来の意義に沿うものとなるのである。そうすると、この問題についての最終解決としては、国旗及び国歌が、強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要であるということを付言しておきたい。」